上原浩治

40歳になっても頑張っています。母校の大阪体育大学(大阪府熊取市)野球部監督・中野和彦は教え子を「反骨心の塊のような男」と表現する。 「うちに入ってきたとき『4年後のプロを目指さないか』といったら、上原は『無理っすよ』と答えた。でも『一緒に夢見ようや』と契りを交わしたのを覚えている」 上原は、東海大附属仰星高校(大阪府枚方市)では3年まで外野手だった。ピッチャーをするようになったのは3年途中から。だが当時は後に日本ハム入りするエース建山義紀の控えで、打撃投手をする〝補欠〟だった。 しかも、将来の体育教師を志して受験した大体大も最初は失敗している。中野は「不合格だったのは英語の点数が低かったから。でも相当努力したと思う。浪人で予備校に通いながら1年後に合格したときはトップクラスだった」と振り返った。 ただ、大体大は今でこそ社会人、プロに送り込む強豪になったが、当時はプロスカウトからソッポを向かれるほどノーマークだった。 しかも、大体大野球部には専用グランドがなく、附属の浪商野球部が優先され、チーム全体がまとまって練習するのは昼休みの約30分間に限られた状況だ。さすがに全日本代表入りした時には、ほとんどのプロ野球チームからマークされるようになったが、試合後、選手たちがスポーツメーカーから支給された手袋、アンダーシャツなどの用具を平気で「ポイ捨て」して帰る光景に驚いた。恵まれない環境に育った上原は「こいつらには絶対に負けない」と闘争心をたぎらせたのだ。 現在、大学で218人の野球部員を預かる監督の中野は「今もうちの選手は折れたバットにクギを打って練習している。どれだけ野球で有名になって、強くなっても、野球用具をおろそかにするやつはうまくなれない。それを大事に使うのも礼儀作法」という。